世界には光があふれすぎている
成長、発展、夢をかなえる、豊かさ。
私(自称無職)の主な世間との接点であるインターネットと本屋にあふれかえっている言葉だ。
それらはたしかに善いもので、すばらしいものなんだろう。あと、使いやすい言葉なんだと思う。どれもほどほどに具体性がなくて、だからこそ汎用性が高いし。
でも、そういうものを見かけるたびに、胃がチクチクするような違和感…を通り越して「気にくわない」という殺意がつきまとっていた。
ふと手に取った本、ツイッターで流れてきたブログやニュース、だれかのたわいない言葉、自分で書いた占い記事…。
思わぬところでポジティブな言葉を被弾してしまい、それが積もり重なって、「夢とか希望とかもううんざりだ!もっとみんなクソみたいなこと書けよ!きさまのクソを食わせろ!」と発狂する夜もあった。
最初はただ単に自分が「他人の正義が気にくわない性質だから」だと思ってた。
でも、それだけじゃない気がする。他人の言葉どころか自分で錬成した前向きなアドバイス(笑)にも発狂するし。むしろ自分の発言のほうがはるかに気にくわない。
違和感の裏には、自分がおびやかされているような、足もとを揺さぶられているような不安感があった。
ブラック企業の求人広告の決まり文句でよく使われているから?
情報教材を売りつけるための宣伝文みたいだから?
たぶん、それもある。
でも、もやもやとする感情を持て余して頭ぐるぐるしながらネットをふらふらと見て回って、たまに本も読んでるうちに、なんとなく気づいてきた。
もしかして、明るいもの・正しいもの・善いとされるものの過剰供給が原因なのでは?
右を向いても左を向いても上を向いてもいろんな「正しさ」が飛び交っているから、「もういらない」と嫌になってしまうのでは?
少なくとも、私にとっての接種上限を超えてしまっている。仕事柄(冒頭で無職と言ったが実は働いている)自己啓発的なものに触れることも多いから、もしかしたら職業病かもしれない。
暴力的なまでの物量のポジティブで窒息しそうだ。成長成長成長成長ってうぜーわ!夢をかなえるってそんなにいいことかよ!?明日死ぬかもしれないのに!むしろおまえがしね!ごめんやっぱり生きて!!!!とスマホ(※父の遺品)をベッドにやさしく狂おしくぶん投げたりした。なにも解決していないが気分はすっきりした。
成長も発展も夢も塩分濃度が高い単語だから、そういう文字列を目にしただけで精神的な血圧が上がりすぎてつらいのだろう。無意味なクソで薄めないと、有意義なものというのは概して毒になる。
話は変わるけど、昔、少なくとも10年前のインターネットはもっと暗かった。気がする。
光にあふれた世界からの逃避先、社会からこぼれおちてしまったり、なんとなく世間と感性が一致しないひとびとがうろついている薄闇がそこにはあった。
いや、今でも暗さは残っていると思う。だけど昔よりはるかに勢力が弱まってしまった。なんだか根暗の肩身が狭くなっている。ネットがインフラ化したおかげで各種SNSに明るいものごとが増えて、根暗に対して「それはよくない!」と水を差されるような事故の発生率が膨れ上がった…ような気がする…。もしかしたら被害妄想かもしれない。
比較的薄暗いSNSであるツイッターにも、うんこの一言やたわいない日常や熱い萌え語りに混ざって、啓発・啓蒙的なツイートがつぶやきがどんどん流れてきてヒエエとなる。もちろん用法・用量を守って摂取した「有意義なこと」は生きやすさにも繋がってくるけど、私にとってはキャパオーバーだ。もともと情報過多に弱い、という性質も関係していると思う。たぶんツイッター向いてないんじゃないかな。かといってFacebookに行ったら0.3秒で焼け死ぬ。
そんなわけで、私は私の生きやすさのためにインターネットに薄闇をもたらそうと思った。もちろん世迷い言だ。あと、理想に苦言を呈している記事で自分の理想を掲げるってどうなんだろう。まあいいか。
大したことは言えないしできないけど、顔のない存在のままクソみたいな無意味をまきちらしていれば、なんかおもしろそうなひとびとがふらっと現れるかもしれない。光のもとでクソをまき散らすのは迷惑だしハードルが高いけど、薄闇のなかでみんなでクソをすれば怖くないし、それはきっととても楽しい…楽しいか…?
閉ざしてしまうと薄闇が煮詰まって闇の深淵になってしまいそうだから、一応だれに対しても開かれている感じにはしたい。闇というか病みをぶちまけられてもドン引きする自信しかないし。光もクソもほどほどが一番だ。
私と似たようなタイプの人間は少なくとも30人はいると考えられるため(「ゴキブリを1匹見たら30匹はその辺に潜んでいる」の法則)、今後はこのブログをごきぶ○ホイホイとして活用する所存である。